佐藤優さんの『国家論』を、年末に読んだ。
久々にクリアに頭の整理ができた。
が、久々にまともな本を読んだ反動で知恵熱が出たのか、
三が日は寝込んだきりの寝正月だった。
国家が社会およびネーション(民族)と一体になっている現在、
思考実験として社会とネーションを排除してみてはじめて
国家という「きわめて厄介な存在の本質」がみえてくるのではないか、
とするのが本書の立場だ。
まず国家から社会のイメージを控除した先にみえるのは、
「国家とは暴力に裏打ちされた存在で、国家を実態として担う官僚階級が
社会から収奪することで存続する」という構造である。
いわば、公的なかたちで暴力を独占する官僚たちの私的な機関が国家なのだ。
『国家論』(NHKブックス)、副題は「日本社会をどう強化するか」とあるが、
強化のための処方箋、実践法については読者に委ねられている。
社会のなかに自立したアソシエーションが出現することを期待すると記されるのみだ。
なぜ社会が強くならなければならないか、その理由が明確に力強く解き明かされる。
聖書やマルクスや柄谷行人をクロスオーバーさせながらひも解いていく、
そのアクロバティックにして精緻な語り口には舌を巻く。
チェコ語で神学の教鞭をとることができるという教養と、
ロシアで外交官として修羅場をくぐってきた(現在も控訴中の被告の身)経験をもつ人だ。
国家と社会の「区別はされるが分離はできない」性質を、
キリストの神性と人性の関係と重ね合わせるあたりの手際は圧巻だ。
社会が強くならなければならない理由、それは、国家の暴走をゆるさないためである。
国家を否定するのでもその転覆をはかるのでもない。
むしろ保守的な愛国主義者であるからこそ、国家と上手くつきあいたいと考える。
国家を適正な方向に生き永らえさせるために社会が強くならなければならない。
ともすると国家がその暴力性を剥き出しにしはじめたのが、9.11以降のいまの時代。
最近はいくらか揺り戻しが起きている感もあるが、
まともに戦争ができる国にむけて改憲への準備が一気にすすんだのは記憶に新しい。
さて、年が明けて京都議定書がスタートを切った。
言うまでもなく京都議定書は国家マターだ。
しかし、温暖化対策は、われわれ社会と地球の問題である。
京都議定書は、われわれが国家とどう向き合えばいいのか、
それを見つめ直す格好の試金石となるのではないか。
社会を強くするためのまたとないチャンスにもできるだろう。
逆にわれわれがこのチャンスを生かしきれなければ、
社会をすみずみまで"環境全体主義"が圧迫する日を招いてしまうかもしれない。
官僚たちに手柄を立ててもらいながら、
社会が国家をリードしていく構図をつくりだすことは可能なはずだ。
地球環境の未来がそれをのぞんでいる。
国家が一目を置く、健全な社会的圧力となるアソシエーションが登場する可能性はきっとある。
more treesがそのアソシエーションの筆頭に躍り出ると信じて、今年、活動に励もうと思う。
コメントする